J-LAM の会が2006年4月1日に独立してから初めての会報 『羽根のたより』 に体験記として掲載されたものです。
病気について皆さんに知って頂きたくありのまま載せました。ご覧下さい。(^人^)♪


LAM告知を超えて
こんにちは。このような体験記を書くのは初めてに近いのでお見苦しい点がたくさんあるかとは思いますが、突然このLAMと言う病名を告げられ、私が感じた事を正直に書きたいと思います。
 
私は北陸在住の主婦です。一人目の長男は、臨月までつわりや切迫流産、切迫早産に苦しめられながらも無事自然分娩で生むことが出来たので、二人目の子供を妊娠した時(去年の夏)は、つわりも軽く安心していたところ、秋頃から息切れと動悸がどんどん酷くなりました。初めは妊娠特有のものだと我慢していたのですが、平地すら徒歩1分も歩けない、さほど段数の多くない自宅の階段を上っても心臓が破裂しそうに胸が苦しい…。これはちょっと普通ではないと思い、産婦人科で紹介してもらった個人病院で検査したところ『喘息』と言われスプレー吸入してました。しかし、良くならないので2006年1月27日、吹雪の日、長男を義母に預け、県立総合病院の外来へ行きました。受付に行くまで何度も息苦しくうずくまりながら…くしくも長男の1歳6ヶ月の日でした。
 
緊急入院
長い待ち時間の末、診て貰った先生には個人病院から紹介状を持たずに来た事、喘息のスプレーをほとんど使っていなかった事を叱られました。(効かないので使っていませんでした。)が、とにかく検査してもらって(採血やレントゲン、心電図等)その後、酸素飽和度を測ってもらったら大変低い数値だったのでその場で酸素吸入やCTスキャンさせられ緊急入院となりました。
外来で薬を貰って帰れるものと思った私はビックリしました。だって私は子供の頃から大変活発な方でジッとしている事が出来ない位にやんちゃな子だったのですもの。中学、高校の時はテニスをしていて朝から晩までボールを追っかけていろいろな大会に参加したものでした。持久走だって得意で運動神経の良さは自他共に認めるくらい…勉強は嫌いでしたけど(笑)
こんな私が入院だなんて考えられない。数日後、主治医がおそらく『(肺)リンパ脈管筋腫症』でしょうと簡単に病気を説明した手書きの紙を置いていきました。あまりに簡単な説明書きだったので私は妹に病名をネット検索して内容を携帯メールに送って貰いました。
その中身を読んでいくうちに私は恐怖に包まれました。原因も有効な治療法もわからない大変稀な病気であること。気胸だとか肺移植だ、卵巣摘出だとか、自分が関わるとも思っていなかった言葉を目の当たりにした上に、肺移植と言う言葉や診断後10年後の生存率は40%から75%…って言うところまで読んだ頃には愕然としました。当時、長男がまだ1歳6ヶ月で次の子供も妊娠7ヶ月でこれからと言う時に…  はじめは放心状態と言いますか,我が身の事とは思えませんでした。が、その内、何とも言えない不安に襲われました。
大部屋だったので同室の人に悟られないように昼間は努めて明るくし、夜はカーテンを閉めたベッドの上で声を上げないように涙を流しました。何も知らずにお見舞いに来てくれた方にも同じように、『ちょっと体内酸素の濃度が薄くて息苦しくて…』って適当にごまかして笑ってやり過ごすので精一杯でした。
その一方何とか自分なりに医療関係に勤めている知人達に片っ端から自分の病状を告知して調べてもらいましたがやはり『(肺)リンパ脈管筋腫症』で間違いなさそうとの事でした。
くよくよして生きても前向きに生きても1日24時間と言う事は同じです。ならば、積極的に生きていく方がいいと自分を奮い立たせ,何でも積極的に情報を取り入れたい思いでいっぱいになりました。そして、、J-LAMの会が一番活動的な会だと思ったので連絡を取ってみたところ、事務局には、大変迅速で丁寧な対応をして頂き、「一人じゃない」と励まされました。皆様に色々と生活面,治療面,医療費面,福祉制度面等どんな事でも教えて頂きたいと思い入会させて頂きました。
 
待機
治療らしい治療もする訳でもなくただ酸素しか吸ってない状態、入院して子供や家族と過ごせないストレスが私に溜まっていく一方、家族も専業主婦だった私が居ないことで家事や育児の負担が増えました。医療費や急遽長男を保育所の一時保育に預けなくちゃいけなくなった事(義母もパート勤めの為)により支出も増えた為、心にも余裕のなくなった家族は些細な事でも口論が絶えなくなり、本当に私一人が入院したため家族全体が崩壊寸前までに…非常に心が痛みました。
私は何度もソーシャルワーカーさんに医療費や難病認定や身体障害者認定や在宅酸素療法したいので退院したい旨を相談に行ったり、市役所や保健所に問い合わせたり外出出来ないなりに出来る限り動いてみました。退院したいと口癖の様に先生や看護士に訴えたけれどもやはり難病であるのでそう簡単には判断がつかなかったのか、いい返事が聞けませんでした。そのうち酸素の流量も多く(毎分3Lから4Lへ)なったけど酸素飽和度がだいたいいつも同じ数値を示すようになり、内科としては退院(2月19日)の許可が下りました。
私の場合妊婦でもあったので出産もこの総合病院で行わなくてはいけなくなったので個人病院から転院しました。幸いこの産科の先生は熱心な方で私の意向を汲み取って頂きながら順天堂の瀬山先生と直接連絡を取りながら綿密な出産プランを立てて下さいました。手術に際してはリスクもちゃんと説明されました。
私のお腹が大きくなると横隔膜が押し上げられて肺も苦しくなり、ますます酸素が行き渡りにくくなるため赤ちゃんに酸素が充分に回らない。酸素が回らないと赤ちゃんが成長しない。母子ともに安全を考え早めに帝王切開で出産する。出産予定日に関しては医師側、患者(私)側の折り合いをつけ32週(9ヶ月)に入ったら行う。(医師側は母体の安全を考えもう少し早くてもと言われたが私はもう少しお腹の中に温存したかった)帝王切開の麻酔は通常は産科の医師が行うが大事をとって麻酔科の医師が行う。赤ちゃんが小さく未熟児で生まれてくる為、小児科の医師を手術室に待機してくれること。出産まで産科病棟にて管理入院(3月6日〜)して母子ともに体調を整えること。
県ではかなり大きい病院ではあるが『(肺)リンパ脈管筋腫症』を発症しながら出産する妊婦は初めてだったらしいです。
帝王切開自体はポピュラーに近い手術であるから恐怖感はさほどなかったのですが私がこの手術において最も恐怖に感じたのは、麻酔と点滴の水分?!による『肺水腫』を起こしてしまうかもしれない事でした。医師の話によると100%起きるとは言えないが、ほぼ起きるでしょうと言われました。起こしたら人工呼吸器を直ちにつけられ何日か集中治療室に入らなくてはいけないそう。
担当医には、帝王切開にて開腹手術をする際に卵巣摘出手術を勧められました。もちろん有効な治療法とは確定していないし、何年か後に全く有効で無かったとの報告もあるかもしれないとの説明は受けました。卵巣摘出手術のデメリットである『更年期障害』、『動脈硬化』、『骨粗しょう症』の説明もちゃんと聞きました。今後の妊娠出産は私には不可能であるだろうとも言われました。ただ今後この病気である以上、何かの手術する際には麻酔と点滴による『肺水腫』のリスクは常にあると言われたのです。
赤ちゃんに会える楽しみもある反面、私は無事に生還できるのかと真剣に考え、怖くて怖くて日中明るく振る舞えば振る舞うほど毎日がくじけそうでした。
 
手術
でもどんな人にでも時間は同じ速度で流れるもので、とうとう手術当日(3月22日)がやってきました。考えた結果、今の私には手術による『肺水腫』にて集中治療室に入ることが一番怖いので何回も手術をすることを考えるより1回の開腹で2手術を終える先生方の提案を受け入れる事にしました。
手術着に着替え、点滴され、緊張高まる中ベッドごと手術室に運ばれました。大きな病院での手術は私にとっても初めての事だったので、上を向いて寝たまま運ばれることで緊張や恐怖感がさらに高まるし、エレベーターに乗せられるときはまるで火葬場の炉の中に入れられるかの様で怖かったです。広い手術室の中に患者は私だけで周りを医師や看護士がたくさんいて逃げ出せるものなら逃げ出したいくらい。それでもがんばらなくてはと思えたのはお腹の中の赤ちゃんのお陰だったかもしれません。12時30分に麻酔をかけられ血圧がかなりガクンと下がり吐き気とめまいに襲われながらも、13時に手術が始まりました。13時17分、1,650gと小さいけどとってもいとおしい次男が誕生しました。すぐ泣いてくれたので少し気が緩んで私も泣いてしまいました。ほんの少しだけど胸の上に乗せてもらいカンガルーケアもさせてもらいました。
その後は、卵巣摘出手術です。恐怖感があったからかお腹が押されている感覚がつらかったのか、時々具合が悪くなったり、スタッフの手を何度も握り締めていました。自分ではかなり長く感じたような気がします。
手術後は個室にて、看護士の手厚い看護をしてもらいました。先生には酸素の流量や点滴が落ちる速度までかなり考慮してもらったお陰で一番恐れていたほぼなるであろうと言われていた『肺水腫』のリスクを奇跡的に脱出することが出来ました。後日ではありますが車椅子に乗せてもらってNICU(新生児集中治療室)の次男に面会も行きました。早く生まれたため、肺の機能が未熟で、私と同じく酸素吸入してました。点滴や心電図、酸素飽和度を測る為の管や線にたくさん繋がれていました。こんな赤ちゃんに私がしてあげれることは母乳をあげる事しかないと思い、頑張ってマッサージを続け搾乳してNICUへ届けてもらいました。
日が経つごとに私も赤ちゃんも徐々に回復していき、私は4月2日に退院することが出来ました。NICUには搾乳した冷凍母乳を持って面会に行きました。子供の生命力には感動させられます。早産での未熟児の為、やはりリスクはいろいろある(動脈管開存症や貧血等)のですが2,000gを超えたくらいから飲む量も増えてきてまるで『早くお家に帰りたいよう』って訴えているよう。4月の最後の週には直接母乳を吸わせることも出来、5月3日に退院しました。
こんな生活の中でも自分が軽い肺炎になって高熱が出たり、1日中咳き込んだりで己の免疫力や体力の低下も思い知らされました。病名を告知されてから現在までの治療は、24時間在宅酸素療法(毎分4L)とメプチンエアー吸入です。外出の際は、携帯酸素ボンベを持ち歩くのですが重いし(バリアフリー化が少ないのでリュックに入れて担いでます)常に酸素の残量を気にしなくてはいけないのでストレスがたまりまくりです。旅行に行きたいと思っても24時間酸素を吸入しているのでどのようにすればいいか考えると難しく躊躇します。AC電源も使える小型の酸素濃縮器を使えるようになったら少しは気が楽になるんですけどね。
この世に生を受けてからが死へのスタートであるとは理解しようと思いながらも、そう簡単には割り切れるものではない事を実感、痛感しております。実際私が住む県で起きた、全国ニュースにもなった『人工呼吸器取り外し問題』での終末医療への意見は自分だったらと考えてもまだうまくまとまりません。自分や家族がもしもの時の事は健康な状態のときから考えておくほうがいいのですが、日常生活に追われて結論が出せずに今日まで来ています。
この病気は進行や症状がそれぞれ違いますが、行き着くところの悩みはみんな同じだと思います。家族の方も愛する人が難病だと知った時の心痛はなんとも言えない程だったでしょう。もしかしたら家族にも理解されきれずに悩んでいらっしゃる方もいるのでは思ってしまいます。不謹慎な言い方ですがそんな事はドラマか映画の中の話だと思っていた、私。わざと明るく振舞うときは『宝くじにも当たらないのにこんな難病に当たるなんて』って笑い飛ばすんですけど、反面むなしさも押し寄せてきます。告知されてたった数ヶ月の私が思う位ですから発症して数年経たれていらっしゃる方はもっともっと何度も感じてらっしゃる事でしょう。この病気になったせいで自分の生き方や家族の生活をも変えさせられた方は、ほぼ100%なのではないでしょうか?夢や仕事もあきらめたり制限したり…何に対して怒ればいいのかも分かりませんよね。
病気になって体力的にも精神的にもかなりキツイのに、お金の事(生活費、医療費)まで心配しないといけないなんて。
おまけに呼吸器の障害認定は1級の次は3級からなので大した控除も受けれません。(もしかして私の住んでいる県だけかしら)高速道路の通行料金や車の税金が安くなるだけぐらいではなんの足しにもならないような…おまけに身体障害者用の駐車場には平気で健常者が駐車している有様。そんな事は国外ではかなり白い目で見られるそうです。

LAMという病気は、特定疾患の研究対象には指定されていますが、未だに公費負担の特定疾患としては認定されていないそうですね。むなしさと憤りを感じます。その上で、J-LAMの会の大勢の皆様にはLAMの為、会員の為に動いて下さってるのを実感致して感謝しきりです。
これからは皆様や自分にとって、そしてLAMを取り巻くすべての事が良い方向に向かう事を信じて、今出来る事を精一杯頑張りたいと思います。もちろん、私生活においても、
くよくよばかりして家に閉じこもってばかりは居たくないですし、わがままかも知れませんが、私が一番私らしくありたいと思います。
 
おわりに
思ったことを本当にそのまま書いてしまったので読みづらい表現や気に障る表現をしてしまったかもしれませんがご了承下さい。私はこの病気に治して真剣に取り組みたいので、会の皆様とは本音のお付き合いをさせて頂きたいです。このJ-LAMの会がどんどん盛り上がって世間に認知してもらって、まずは『公費負担の特定疾患』に認定されればと思います。そして1日でも早く良い治療法が発見される事を願います。私も出来る限り協力させて頂きます。まずは、私は自分のHPに公表してLAMをたくさんの方に知って貰う事から始めたいと思います。
今回この様な体験記を書かせていただける機会を与えて頂き本当に感謝致します。ありがとうございました。合掌


これまで特定非営利活動法人 日本呼吸器障害者情報センターの一支部として活動してきました『J−LAM』の会は、2006年4月1日をもって、正式に独立致しました。患者同士が互いに医療・福祉などの情報を交換し、また精神的に支え合いながら、より良い医療、暮らしやすい社会を目指して発信し続けています。2005年には、「厚生省呼吸不全調査研究班」によるLAMの研究継続と、治療費の公費負担化を求める署名活動を行い、30万人分の署名を厚生労働大臣に提出するなど、行政への働きも積極的に行っております。
しかし独立に伴い、独自スポンサーのない今の財政状況から考えて2006年中に家族、賛助会員を含め会員が250名を越えなければ、、会費の値上げなど非常に厳しくなる事が予想されています。
ほとんどの患者は定職がないことや、公費負担にならない高い治療費など個々の財政もかなり負担になってます。
それぞれの事情もおありかと存じますが、会の現況をご理解いただき、このJ−LAMの会が私達患者の希望のいぶきとなるよう続いていける事に、どうかご協力下さい。宜しくお願い申し上げます。 

家族会員、賛助会員募集中
m(*- -*)m 会の活動をご支援いただける方のご協力をお願いします。

inserted by FC2 system